武道は、礼に始まり、礼に終わるとされます。
これは、合戦での戦闘術の追求が、支配階級である武士の礼法と共に発展した結果、子弟の教育や精神修養の性格を併せ持つに至ったからであると思われます。武道とは、武士道、サムライとしての身の処し方を学ぶ道でもあったわけです。
スポーツと武道の本質的な違いは、ここにあります。
まとめますと、
戦場で命のやり取りをするための「戦闘技術」をベースにした、技術追求と精神修養の道が武道。
「遊び」をスタートとして、勝敗をつけるためにルールを整備して発展した、身体操作を磨くのがスポーツ。
といったところになるでしょう。
しかし、武道にも、ルールがあって勝敗を決する試合があります。スポーツにも、精神修養の側面はあります。これなどは、「武道の中にあるスポーツ的要素」、「スポーツの中にある武道的要素」と見ることができるでしょう。
「礼」と「残心」に見る武道の特徴
武道では、「残心」というものが重視されます。これは、勝ちを収めた後でも相手から気を離さず、油断のない構えを保持することです。弓道においては矢を放った後の姿勢、空手道でも剣道でも、残心を示さないと「一本」として認められないことさえあります。
これは、真剣勝負の中で発達した武道特有の礼法と言えるでしょう。『シグルイ』において、牛股権左右衛門は、残心を怠り、斬った敵から注意をそらしたために、まだ動く敵の手に触れて瀕死の重傷を負いました。
それに対して、柔道はどうでしょうか。柔道の選手達は、国内外を問わず、実に礼儀作法がおざなりです。開始時、終了時の礼も適当ですし、オリンピックの決勝戦で勝利が決まった瞬間などは、ガッツポーズどころか飛び跳ねる既婚の女子柔道選手さえいます。これは、柔術が近代柔道として世界に普及され、ルールが標準化されていく中で、スポーツ化されて失われてしまった礼の一例と言えるでしょう。
しかし、そのこと批判するつもりはありません。武道は武道、スポーツはスポーツと割り切るべきでしょう。ではなぜ高校野球のガッツポーズに対してまで批判の目を向けてしまう人がいるのかというと、30年前にロバート・ホワイティングが『菊とバット』で明らかにしたように、野球というのは亜米利加生まれのスポーツ競技でありながら、実に日本的な特質を持っている競技だったからです。
刀の代わりにバットを一本握り、打者と投手の一騎打ち、走者のために命を捨てる自己犠牲、全体統一、集団戦法。実に日本的なこの競技に、多くの人がサムライの幻想、武道の理想を抱いた結果、高校野球の選手達は清廉潔白な礼儀正しさを求められることになったのではないでしょうか。
もちろん、スポーツにも、礼儀はあります。スポーツマンシップとされるものがそうです。これも日本の武道と同じく、西洋の貴族階級の礼儀からスタートしているものです。「トーナメント」という言葉の語源が、騎士の馬上試合から来ていることを考えても分かります。
しかし、その礼儀が略式で比較的ユルいまま今に至るのは、西洋文明が基本的に他民族、異文化だからでしょうか。
島国の中で共通認識を保ったまま、極限まで練り上げてきた日本の礼儀正しさは、世界に誇るべきものですが、現代社会においてスポーツにまでそれを求めるのは難しいかもしれません。しかし、例えば蹴球の世界杯など、世界に中継される競技においては、日本がそれを発揮したとき、世界には驚きと賞賛をもって迎えられることと思います。
コメント、ネットの反応
いつも鮮やかで軽快な切り口,お見事でございます..
「柔道」はもう武道ではなくなりましたね.
勝った後の鼓舞する様を見て某関取が,負けた奴のことを慮れ,と言っていたことがありましたが,本当に見ていて情けないですね.
礼儀作法は形ですが,その目的とするところを知らないと形も崩れてしまうんですね.
礼に始まり礼に終わる
それができないということはやはり精神性が低くなってきているのでは?
そういった状況も昨今の「礼儀知らず」が蔓延した一つの理由ではないかと。
(例のボクサーとか)
スポーツは「試合」、武道は「死合」と何かに書いてあった気がしますが、
その通りだと思います。
話は逸れますが相撲なんて国技と言う割には幕内力士の半分くらいは海外出身ですもんね…
>talkenさん
これぞブログ武道竹村流の切り口でござる。なんて。柔道はすでに「ジュードー」ですね。負けた相手のことを慮る、という精神的な営みは武士道や儒家思想から来るものであって、世界万民に理解できるレベルの話ではありませんからね。
>waterfallさん
スポーツは「試合」、武道は「死合」。なるほど言い得て妙ですね。
大相撲もそろそろ外人力士のガッツポーズが増えてくるのではないかと見ています。